2002/1/5〜17
東部ニューギニア戦没者遺骨収集報告T
厚生労働省所管の「東部ニューギニア遺骨収集政府派遣団」の一員として、
新年早々の遺骨収集事業に
参加をしてきました。
 
ニューギニア戦は、昭和17年から19年までに展開され、日本はラバウル・ラエ(レイ)・マダン・ウエワクなど北部を拠点に、スタンレー山脈を隔て、連合軍はポートモレスビーなど中南部を拠点に戦った。

【活動一日目】
 成田からケアンズ経由で首都ポートモレスビーへ。赤道直下だけあって「暑い」町であった。

【活動二日目】
 首都といっても人口20万人くらいの都市。南国お馴染みの風景だが、空港前でも公共施設前でもいたるところに市民が座ったり、たむろしている。800以上といわれる部族は言葉も異なり、共通語は「ピジン・イングリッシュ」で、英語に似ていて話しやすかった。

【活動三日目】
 大使館と博物館を訪問。大使館によると在留邦人は約200名と青年海外協力隊員50名。
現地住民の遺骨発見情報は大使館経由で厚生労働省に入るようになっている。

【活動四日目】
 ポポンデッタへ。地元オロ州幹部や担当者と打合せ。担当者の「すべて話はわかっている大丈夫だ」という心強い発言に安心する。マーケットにはビートルナッツ(木の実とライムとマスタードを混ぜ、噛むと赤くなる嗜好品)が沢山並んでおり、みんな口を真っ赤にさせていた。

【活動五日目】
 第一の情報があったオロ州ギルウェイへ向かう。凸凹で泥だらけ道を2時間。現地に到着すると珍客なのか沢山の村人が集まってきた。
 カヌーで川の対岸に渡り、高床式の小屋に案内され昼食。少し向こうに、日本兵の遺品や軍装が簡易な祭壇に並べられている。こうやって日本の慰霊団を呼んでいたらしいのだ。
 交渉が始まり、族長は「遺骨を返還すると日本人が来なくなる!」「族長の一存では決められない」と主張を始めた。何度も趣旨を説明するものの交渉は平行線をたどり、ムードは険悪に・・・。しかし団長の必死の交渉が通じたのか、夕刻、ようやく十柱の御遺骨を受領することができた。外国での収集事業の大変さを思い知らされた。

【活動六日目】
 今日は移動日。現地の人々は友好的で、子供も大人も挨拶すると満面の笑みで返してくれる。 親しくなった同行スタッフからニューギニア国歌を教えてもらった。
 ご遺骨は、飛行機に搭乗する時も極力捧持する。日本の航空会社だと、空席があれば席にも安置させてくれるそうだが、外国ではそうはいかない。ボーン(骨)がボム(爆弾)と間違えられたり、と交渉はここでも大変だった。
首都ポートモレスビー到着後、日本大使館へ向かう。今回の派遣目的の説明と現地情報の収集を行う。 続いて国立美術・近代史博物館を訪問。同行スタッフと現地での行動について詳細を検討する。
ポポンデッタ空港には、大戦中の豪軍戦闘機が放置されていた。 オロ州政府関係者を表敬訪問。警護スタッフ(ライフル所持)の同行など万全の体制をとってくれた。
オロ州ギルウェイの族長。友好ム
ードで迎えられたが、ここから返還
交渉が難航!
現地住民が農作業などで発見し、
保管していた御遺骨。
派遣団長が必死の交渉を行う。
4時間に及ぶ交渉に疲労感が漂った。
移動の際には、御遺骨をしっかり
抱えて。機内への持込許可交渉
も苦労の一つでした